ハフリーヌの書棚

読書日記、短歌と愛蔵の品々

三島由紀夫『小説家の休暇』

小説家の休暇 (新潮文庫)
小説家の休暇 (新潮文庫)
新潮社


「六月二十四日(金) 快晴で、酷暑である。今年の梅雨は空梅雨らしい。久々で神田の古本屋歩きをし、高野辰之氏と黒木勘蔵氏の校訂にかかる『元禄歌舞伎傑作集』上下を買う。珍本なり。」


三島由紀夫の『小説家の休暇』は、こう始まる。
酷暑・空梅雨という言葉が、今年の夏となんとも被る。
この本のページをわたくしは何度繰ったことか。
昭和30年6月24日から8月4日までの1ヶ月半、日記形式で綴られた著者の考察や評論や随筆が断章形式で語られている。


日記風でありながら、そこに思索の軌跡を描く風情を、わたくしは三島由紀夫から習った気がする。その機知、その警句、その切り口の鮮やかさ。
こうした文章を書くことにかけて、三島由紀夫は超絶的にうまい。


わたくしは、小説全般に対してあまりよい読者ではなく、読むのはもはら評論や随筆である。その点でいえば、この『小説家の休暇』はわたくしの気質にぴったりと合った作品であり、実際三島作品の中で一番多く読み返している。


三島 由紀夫(みしま ゆきお)、大正14年1月14日 -昭和45年11月25日)

日本の小説家・劇作家・随筆家・評論家。

戦後の日本文学界を代表する作家の一人であると同時に、ノーベル文学賞候補になるなど、日本語の枠を超え、海外においても広く認められた作家である。

『Esquire』誌の「世界の百人」に選ばれた初の日本人で、国際放送されたTV番組に初めて出演した日本人でもある。


45歳で死んだ三島は、生きていれば今年93歳であり、『休暇』を執筆したころは丁度30歳であった。ボディビルを始めるのはこの直後であり、『金閣寺』の構想も練られ始め、前年には『潮騒』がベストセラーとなっていた。


「今私が赤と思うことを、二十五歳の私は白と書いている。しかし四十才の私は、又それを緑と思うかもしれないのだ。それなら分別ざかりになるまで、小説を書かなければよいようなものだが、現実が確定したとき、それは小説家にとっての死であろう。」


不確定だから書くのである、


「とにかくわれわれは、断乎として相対主義に踏み止まらねばならぬ。宗教および政治における、唯一神教的命題を警戒せねばならぬ。幸福な狂信を戒めなければならぬ。現代の不可思議な特徴は、感受性よりも、むしろ理性のほうが、(誤った理性であおうが)、人を狂信へみちびきやすいことである。」


この文章から思い出されるのは、澁澤龍彦のこの一文である。


「三島氏の最後の行動を錯乱と名づけてよいかどうかは疑問であろうが、氏が持ち前の理性の劇に耐えてくれたならば、と思わずにはいられない。今日、理性は情念や感性にくらべて評判が悪いようであるが、人間全体として眺めれば、決してそんなものであってよいわけがない。」(『サド侯爵夫人』の思い出)


球体関節人形

わが家には3体の球体関節人形がいる。
その中の1体は、わたくしのプロフ画像にもなっているこちら。

森馨作「豊受姫(とゆけひめ)」。


ぽわーんとした感じの子ではあるが、角度と髪型を変えるとなかなかに妖艶になる。

セピアにすると、とても古色めいた雰囲気をまとう。




丸谷才一『花火屋の大将』

花火屋の大将 (文春文庫)
花火屋の大将 (文春文庫)
文藝春秋

丸谷才一である。
わたくしはあまり読まない、わたくしの父親の世代が読む本である。
が、この本はわざわざ買った。
この本に所収されている「一枝の花」という一文を読みたかったからである。


表題は『花火屋の大将』である。
しかし別に花火屋に関したエッセイが入っているわけではない。
ただ冒頭に、役者を褒めるときは「ナリタヤ!」、花火を喜ぶときは「カギヤ~」というのだから、この本のどこか一ぺんで良いので「マルヤ~」と呟いて欲しい、とある。
それが由来。


なかなかに惚けた導入ではあるが、言うだけのことはあって、丸谷才一の文章はユーモアと博識のセンスに裏打ちされて、デパートの実演販売にほいほい釣られてしまう感じに読み進めてしまう。
そういえば大学時代、父から「丸善でクロスのフェルトペンを買ってきて欲しい」と言われたことがある。山口瞳がサインするときにはアレが良い、丸谷才一もそう言っていた、と書いていたらしい。
未だに買いに行ってはいないが、2年ほど前にパイロットのカスタム743を贈ったことだから佳しとしよう。


さて、話は飛んで大正天皇である。
大正天皇は、今上陛下のお祖父さまでいらっしゃる。

大正天皇(たいしょうてんのう、1879年(明治12年)8月31日 - 1926年(大正15年)12月25日)は、日本の第123代天皇。諱は嘉仁(よしひと)。幼少時の御称号は明宮(はるのみや)。お印は壽(じゅ)。明治以降で初の一夫一妻制を採った天皇。

明治大帝と昭和天皇という、歴代天皇の中でもずば抜けて著名な方々に挟まれていて、世間での認知度はあまり高くはない。少しかじってる人たちなどからは「精神を病んでいたんでしょ」とまで言われる。
つまりはご事跡がほとんど知られていない。
しかし今の日本における懐古趣味の模倣は、これすべて大正時代をベースとしているものである。
日露戦役が終わり、大東亜戦争が始まるまでの短い間ではあったが、大正時代こそは近代日本の文化・芸術が爛熟した時代であったと言ってよい。大正ノスタルジーである。


その時代に君臨された帝がどのような方だったかといえば、ひと言で申し上げて「詩聖天皇」であられた。


歴代天皇は和歌をお詠みになられるが、時として漢詩もお詠みになられることがある。
全く知られていないことではあるが、歴代天皇で最も多くの漢詩をお詠みになったのが大正帝であられる。しかも、2位の嵯峨帝が98首であるにの対し、大正帝の作詩数は1367首、実に歴代天皇の御製詩総数の7割をおひとりで詠まれている、それも明治後年から大正初年までの短い期間に。

漢詩人大正天皇―その風雅の心
漢詩人大正天皇―その風雅の心
大修館書店
天地十分春風吹き満つ―大正天皇御製詩拝読
天地十分春風吹き満つ―大正天皇御製詩拝読
錦正社

漢詩だけではなく、無論和歌もお詠みになる。
天皇の詠まれるお歌のことを「御製(ぎょせい)」というのであるが、大正帝のお歌も御製集として編まれたものが465首ある。
これが、どれも良い。何ともいえず、良い。

大正天皇御集 おほみやびうた
大正天皇御集 おほみやびうた
邑心文庫

そんな大正の帝の芸術性について、誰か書いてくれてはいないだろうか、探し回った結果、見つかったのが丸谷才一だったのである。


丸谷才一は『花火屋の大将』所収の「一枝の花」というエッセイにおいて、丸々1文大正帝について語っている。
大学の図書館で大正帝の歌集を初めて読んだ丸谷は、こう述懐している。


「たしかにいいのです。何か溜息が出る感じでした」


後年、司馬遼太郎と対談した際、大正御製を2、3首紹介したところ司馬氏が、「なかなかいいですね」「ほう、うまいですな」と嘆声を発したことが忘れられないとも述べている。


兎に角、うまく詠もうとせず匠気が全くない、その上段違いに品格が高い。


「わたしは吉井勇が好きですが、彼をしのぐ大歌人だと思ふのですね」、「後水尾天皇以来最高の、いやひょっとするとあの江戸初期の帝にまさるかもしれない帝王歌人」とも語り、更には、


「もしこの帝に文学的自由を与へれば、きつと恋の秀歌を詠んだにちがひないと思ひますよ。それは恋のあはれをめでたく歌ひあげて、吉井勇や北原白秋や斎藤茂吉などの作の遙か上を悠々と飛びかける趣のものだつたでせう」


と大絶賛。


そして「遠眼鏡事件」についても、独特の見解を語っている。

「遠眼鏡事件」

大正天皇が進行した脳病により帝国議会の開院式で詔勅を読んだ後、大正天皇はその勅書をくるくると丸め、遠めがねにして議員席を見渡したとされる「事件」であり、それにまつわるさまざまな風説が流布されており、「大正天皇は暗愚であった」と誤って評価される要因の一つであると言われる。

「普通の君主ならばともかく、大正天皇のやうな偉大な帝王詩人が詔勅を遠眼鏡のやうに扱つたつて一向かまはないと思ふのですね。彼ならその資格があつた。(中略)詩人天皇が手製の望遠鏡を即興的に作り、下界の眺めを望み見たとてあやしむことはまつたくない」


李白は水面の月をとらえようとして溺れ、ネルヴァルはザリガニに紐をゆわいてパリを散歩した。それは詩人の遊び心であり、軽やかな祝祭であると。


丸谷才一を読みながら、ああ、と思った。


芸術とは畏まったものではなく、もっと軽やかなもの。そしてその才を自由に伸ばせる時代や世の中であったなら、人はどれだけ幸せだろうと。


文庫にして24ページほどのエッセイを読みながら、わたくしは詩聖天皇と今の日本における芸術の持つ立場とに思いを巡らせたのである。