ハフリーヌの書棚

読書日記、短歌と愛蔵の品々

香川景樹のこと

本居宣長の掛け軸を入手したのは一昨年の秋で、もうすでに2本持っていたので、これで3本目ということになる。
「嵯峨山松」と題された和歌が万葉仮名で書かれており、「さかの山絶へし御幸を君か代にけふかあすかと松の色かな」とある。
宣長の和歌にしては珍しく、覚え書きや日記などにみられる丸まっこい字で書かれており、それがまた宣長の几帳面な正確を思わせる筆跡で、なかなかに好ましい。
立派な箱もついていて、箱書きには、このとき一緒に詠まれた香川景樹の歌が引用されている。


「嵯峨山の松も君にし問はれずは誰にかたらむ千世の古事」


この2首の和歌が詠まれた日付と場所は正確にわかっている。
享和元年(1801)6月7日、京都の四条においてであった。
この年の3月から6月まで宣長は京に滞在しており、香川景樹はこのとき念願の対面を果たすことが出来た。


香川 景樹(かがわ かげき、明和5年4月10日(1768年5月25日) – 天保14年3月27日(1843年4月26日))は、江戸時代後期の歌人。

初名は、純徳・景徳。通称は銀之助・真十郎・式部・長門介。

号は桂園(けいえん)・東塢亭(とううてい)・梅月堂・観鶩亭(かんぼくてい)・臨淵社・万水楼・一月楼。


景樹の生まれた明和5年は、上田秋成が『雨月物語』を上梓した年であり、本居宣長による『古事記伝』の起稿はすでに始まっていた。
出会ったとき、宣長は72歳、景樹は32歳。
宣長はすでに老大家であり、景樹はこの後「桂園派」の領袖として名を馳せることになる。
「桂園派」は『古今和歌集』を重んじる。


桂園派(けいえんは)は、江戸時代後期の歌人香川景樹に代表される和歌の流派。

堂上の公家だった清水谷実業から地下の香川家に伝えられた二条派の分流でもある。

「桂園」は香川景樹の号に由来する。

賀茂真淵らが「万葉集」尊重を主張したのに対し、景樹らは「古今和歌集」を尊重することを主張し、京阪神(畿内)地域を中心に流行した。

歌風は、平易を尊び、声調を重んじた。


宣長の師であった賀茂真淵は、とにかく『万葉集』を重んじた。
そんな師に対して、鈍感なのか図太くも宣長は『新古今和歌集』こそが最高であると公言してしまい、破門寸前にまで真淵を激怒させてしまう。
宣長は自らの不明をひたすら詫び、破門にはならずに済んだが、とはいえ歌の嗜好が変わるはずもなく、宣長は生涯『新古今』の境地を最上のものとし、そこに行き着くまでの方法として、『古今集』を学ぶ必要があるとした。


『古今集』を重んじるという姿勢が、まずは宣長と景樹を近づける。
2人の最初の対面は享和元年5月28日、宣長は日記にこう記している。

「香川式部對面、右の人、予の旅宿へ訪ひ來たき由かねがね望まるる處、今日此所へ來訪ふ也」


「かねがね望まるる處」とわざわざあるのが微笑ましい。
素っ気ない記述ながら、宣長はこの若者の来訪を嬉しく思っているよう感じる。
このとき、2人は歌のやり取りをしている。


宣長が、


「涼しさに夏もやどりも故郷に帰らむことも皆忘れけり」
(ここは涼しくて、故郷に帰ることすら皆忘れてしまう)


と詠むのに対し、景樹は、


「ただひとめ見えぬるわれはいかならん古郷さへに忘るてふ君」
(故郷さえ忘れてしまうあなたですもの、ひと目会っただけの僕のことなんか、すぐにお忘れになってしまうでしょ)


と、ちょっと拗ねたような返歌を詠んでいて可愛い。
宣長もそう思ったかどうかは分からないが、恐らく憎からず思ったことであろう、こう返事を詠んでいる。


「故郷はおもはずとてもたまさかに逢みし君をいつか忘れん」
(こうして偶然出会った君のことを、僕が忘れる訳ないじゃないか)


このようなことを言われてしまえば、景樹が籠絡されない訳がない。


この出会いから10日後の6月7日に、四条で歌のやりとりの会があり、そこで景樹は冒頭に引用した歌を詠むのである。


「嵯峨山の松も君にし問はれずは誰にかたらむ千世の古事」
(松だってあなたが問うから、自分が知ってる千年の古事を語るのです。あたなだから、僕だって色々な話を語りたくなるのです)


益荒猛男の恋とまでは申さぬが、景樹がすっかり宣長に惚れてしまっていることは間違いない。間違いないが、2人が共寝するのは『古今集』の枕。
対しての宣長は、「もののあはれ」宜しく、これまた間違いなく女性好きであるから、その道に迷う心配はない。


この歌会の2日後、宣長は京を発つ。
松坂へ到着は3日後の12日、「九ツマヘ津を出ツ、七ツ時松坂ニ帰著」と日記にある。


景樹にとっては一期一会ならぬ一期二会であったが、3度目はなかった。
この3ヶ月ほど後、宣長は松坂の自宅にて帰幽する。自分の墓所も定め、葬儀の次第や供養の仕方まで、事細かに指図した後での死である。


     *


わたくしが香川景樹の存在を知ったのは、本居宣長経由であり、歌人としての彼の作品に親しみ始めたのは、万葉や古今の歌人たちに飽き足らなさを感じていた頃であった。


景樹の歌の姿勢は、この本の帯に要約されている。


香川景樹 (コレクション日本歌人選)
香川景樹 (コレクション日本歌人選)
笠間書院


「現代に生きている人間として折りにふれ、ことにふれて心に感じたことを、そのまままっすぐに、平常使っている言葉によって表現すれば、それが歌だ、ということになる」(林達也)


パラパラめくりながら、気に入った歌をいくつか並べてみよう。


「闇よりもあやなきものは梅の花見る見る月にまがふなりけり」


「この里は花散りたりと飛ぶ蝶の急ぐかたにも風や吹くらむ」


「なれがたく夏の衣やおもふらむ人の心はうらもこそあれ」


「夏川の水隈隠れの乱れ藻に夜咲く花は蛍なりけり」


「花とのみ今朝降る雪のあざむきてまだしき梅を折らせつるかな」


「世の中はおぼろ月夜をかざしにて花の姿になりにけるかな」


ここにはもう解釈など必要ない、そこに「歌」がある。現代の我々から見ても、もうそこには直裁的な言葉が歌となって存在している。同時代の歌人たちから非難を散々に浴びたという逸話は、実によくわかる。
桂園派はやがて明治になって、与謝野鉄幹や正岡子規らから批判されて衰退したというが、どうしてどうして、景樹の歌には鉄幹など足元にも及ばない。


極めつけはこの1首、


「闇ながら晴れたる空のむら時雨星の降るかと疑はれつつ」
(晴れた闇夜、突如として降ってきた通り雨、星が降ってきたのかと何度も疑ってしまったよ!)


この歌の持つ瑞々しい感覚、詠まれたのは宣長との邂逅から16年後のこと。
「星降る」などという卓抜な表現を思いついた景樹は、わたくしの中では古人ではなく、まさに今を生きる歌人。


いかに宣長といえども、そういう表現は思いつかなかったに違いない。もしかしたら「星墜つ、といふ例はあれど、星降るとは他に見へず」とでも書いたかもしれない。
そう考えていると、想像するだに愉快になってくる。